抜刀道の持つ意味 

初代宗家 中村泰三郎

抜刀道とは「真剣斬りの道」である。神秘を秘めた世界に比類なき魅力をもつ日本刀によって、実際に「物体を斬る道である。」

剣の道は、もともとは「人を斬る」ことを目的として、この国で生まれ、そして育ってきた。太古の昔から江戸時代の初期まで、剣の目的は敵を斬る以外なかった。

 江戸幕府が成立して日本列島に平和の時代が到来すると剣の目的は「人を活かす」「自己を守る」「自己の精神と肉体の錬磨」といったように「殺人剣」から「活人剣」へと変化する。しかし幕末の争乱、明治大正昭和の戦争の時代が到来すると、剣は再び活人剣を捨てて「殺人剣」に変化していく。剣は常に時代に即応
して生きてきたのである。

 大東亜戦争が終わって平和が訪れ、科学の発展によって日本刀が武器としての価値を失った時、剣の道は有史以来の変貌を遂げた。
 「殺人剣」でも「活人剣」でのなく、剣は単なるスポーツに大変身したのである。剣は武道でなくスポーツに衣替えをした。
 剣が単なるスポーツに変わってもそれはそれなりの価値を持つ。肉体と精神の錬磨に最上のスポーツとなり得るからだ。

 しかしここに大きな問題が残る。肉体と精神の錬磨だけが目的なら、野球やマラソンとかわるところはない。剣の道には剣の道としての存在価値があるはずである。その特有の価値とはなんであろうか?。剣の道は生死を明らかにするのが目的である。
 剣道も居合道もその核心に「真剣斬り」がある。この真剣斬りを根底として剣道・居合道は進化してきた。本質を捨てては存在価値は軽くなる。

 真剣斬り、すなわち抜刀道は人を斬るために必要なのではない。人を殺すための武器としては、いうまでもなく日本刀はもはや時代遅れである。

 現代の抜刀道は人間が対象でなく生命なき物体が対象である。そして、抜刀道精神と肉体の統一集中の錬磨にとって、他の方法では代用のきかない極めて特異な価値を備えているのだ。

 日本刀を手にした者はその霊気に心うたれる。このことは西洋の刀や肉斬り包丁を手にしたときとは異なる感覚である。手にする者の魂に迫るものが日本刀に密んでいる。そしてこの上なく鋭利で危険なことから、手にする者は粛然たる緊張感にとらわれる
そして、心や技にいささかの乱れがあっても真剣斬りの結果にそのまま差がでてしまう。絶対の注意が必要なのである。
一切の理屈はいらない。先ずは実行しなくては、日本刀精神の目的は達しない。
精神と肉体の統一集中の錬磨にこれ以上の道はない。

 一方、剣道の発展のために抜刀道はどのような意味持っているであろうか。剣道は真剣斬りを心核とする。心核を無視して本物の剣の道の奥義に達し得ないことはいうまでもない。

また、剣の道は古来、たくさんの名言を現代に遺している。
  「無我の境」 
  「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
  「気位の大事」

いずれも白刃の下で体得された極意であり、同時にこれは、かけがいのない処世の極意といえる。
しかし、これらの名言の真実の重みは、白刃と相対した者でなければわかりにくい。極端にいえば、その真実の重みは、真剣勝負を体験してはじめて理解できる。

しかしながら、斬るか斬られるかの真剣勝負は現代では経験するチャンスはない。もちろんチャンスがあるようでは困る。いえることは、せめて真剣を握ることで命の瀬戸際に立った人間の真実と、対処する極意のなんたるかを想像で知るほかないということだ。

 いかにすれば人間は極限の才能を発揮できるか?これは真剣勝負の世界だけが教えてくれるだろう。


真剣を握っての剣道・居合道の世界で演ずる「形」の現代的意味は、先人が真剣勝負で得た極意の境地を追体験するところに、目的の一つがある。特に真剣によって物体を実際に斬る「抜刀道」において、一層その趣が深いのである。
 要するに抜刀道はかけがえなき、精神と肉体の統一集中の錬磨であり、剣道・居合道の心核であり、処世の極意の開眼につながるものといえる。


------中村泰三郎著書  「日本刀精神と抜刀道」より抜粋----





「試斬で使用する日本刀と鑑賞する日本刀の相違 

千葉東金支部 錬士6段 田代潔

我々抜刀、居合を嗜む者にとって日本刀には特別の思い入れがあるものである。

試斬を行う者は幾振りかの日本刀で試し斬りをしている内、どういう条件を備えている刀が試し斬りに適しているかと言うことについて興味を持つようになる。

一方、それとは別に、日本刀を鑑賞するものとして捉えている人々も存在する。

筆者は試し斬りもするが、それと同時に日本刀の鑑賞を行う団体にも所属している。

時々所謂「名刀」を鑑賞している内に、試斬に用いたら斬れるか否か等と言うことに思いを馳せることもある。

その様にしている内に思いつくのは、果たして鑑賞する日本刀と試斬に使う日本刀を同一に見ても良いのであろうか?と言う問題である。

答えから先に言えばこれは「No」である。何故なら日本刀を鑑賞する人達は第一に日本刀を文化財と考え、決して傷つけたり毀損することを目的とはしていない。

更に鑑賞する日本刀はその文化的価値によって取引の対象にもなるので、傷が少しついただけでも価値が下がってしまうのである。

しかし試斬の場合には、畳表の仮標を斬るだけで細かい傷がついてしまうので、傷つくことを気にしていたら試し斬りは行えないし、試斬を繰り返している内、切れ味が落ちてくるので寝刃合わせをしたり、刃肉を削いだりしてメンテナンスしなければ長い間使うことは出来ない。

試斬に使う際には日本刀を、ある意味消耗品であると割り切る事が必要である。

かたや文化財かたや消耗品として扱っているのであるから、同一視するには無理があるというものである

以前寝刃合わせの砥石を買いに砥石屋を訪れた際に同席したお客さんから「試斬を行うことは文化財である日本刀を破壊する事だ。
試斬に使用して物打ちの部分だけ研ぎ減りし、売り物にならない状態になった酷い刀をいくつも見た。文化財保護の視点から見て問題だと思う。」と苦言を呈されたことがあった。

試斬に使用する日本刀の刃肉を落とす場合、全ての人がそうする訳では無いが、殆どの人は試斬で一番使う刀の切先から物打ちに掛けてのみを研ぐことが多いように思う。

そうした研ぎを回数重ねていると、刀の前三分の一と後三分の二の厚さが極端に違うバランスの悪い刀になる。

この様な刀は鑑賞者から見て美しい刀とは言い難いし、勿論文化的な価値は殆どなくなってしまう。と言うようなことを言いたいようであった。

少し手前勝手な話だとは思ったが、鑑賞する人から見れば、試し斬りはその様に映っているのだろう。

日本刀を鑑賞する所謂「愛刀家」と言われる人々の全てがそうとは言わないが、試斬について否定的な考えがある人も居ることは頭の片隅に留めておいた方が良いと思う。


日本刀鑑賞の世界では刀を鑑賞することが主眼なので、やはり刃文や刀の刀身の中の地鉄の働きや美しさに重きを置く。

特に刃文は刀の身幅一杯に華麗に大きく乱れたものが好まれる事が多いが、試斬にはその様な華美な刃文は却って妨げとなるようである。

國際抜刀道初代会長の中村泰三郎先生もその著書「活人剣抜刀道」の中で、「大乱れの華やかな乱れ焼きは思わしくなく、直刃が一般的に切れ味が良い。」と書かれている。

また「刃文は身幅の4分の1が適当で大乱れは刃が脆く折れやすい」とも書かれている。

実際に戦地で刀剣を扱われていた先生が仰っている言葉なので、非常に意義があることのように思われる。


鑑賞刀の世界では直刃と言う刃文は殆ど脚光を浴びないし、刀匠の方達も直刃を好んで打たれる事は少ないように思う。

上記したような大乱れの刃文の方が見た目が華麗に映るからであろう。

しかし実戦の側面から見ると、折れたり曲がったりすれば、刀としての価値は0に等しい。

どちらの価値観を選ぶかは人それぞれだと思うが、試斬を行わない古流の居合ではなく、実際に畳表等を仮標として試斬を行っている立場の武道家が見た目重視の華やかな日本刀で試し斬りを行うと言うのは、少し的外れな印象を受ける。


また我々が現在学んでいる戸山流や中村流の型なども、他の流派から見ると技が非常にシンプルに出来ており、実戦で即応できる武道であると言う面から見て直刃の日本刀と同じような印象がある。

中村泰三郎先生が試斬に直刃の日本刀を推奨されるのも、自身が行われている流派の特徴と無関係では無いように思う。

故に私見ではあるが、試斬に鑑賞用の華美な日本刀を用いるのは理想的では無いように考えます。

鑑賞刀と試斬で使う刀は、同じ日本刀ではあるが価値観に相当の開きがあるので、それぞれ分けて理解することが好ましいのでは無いかと愚考する次第です。






私の考える【抜刀道】について

東金支部所属  上原 弘

この寄稿のお話をいただいた当初は、私のような若輩者が何を書けるのかとお断りしようと考えておりましたが、同時に今回の昇段者に対して「あなたにとって抜刀道とは」という意見を求められていましたので、改めて考えてみると一言で表す言葉が思い付かず、何日も考えさせられました。

そこで、私にとっての【抜刀道】を考えると共に「私の考える【抜刀道】について」の私見を述べさせていただきたいと存じます。

突然ですが、私にとって抜刀道とは『自己との対話により自身の内面を成長させてくれるもの』です。

言葉にすると大仰に聞こえますが、現代においては「日本刀で物体を斬る武道」という行いは、誰かのためでも、何か成すためでもない行為であり、実際に【抜刀道】を通しての活動が直接的に世の中の人や、社会の役に立つということもないと考えているため【抜刀道】が「武道」であるならば、日々の修練の恩恵は、自己の内面との対話による精神面の成長であると考えます。

 

個人的な考えですが【抜刀道】というものは、ただ単に物理的な物体を斬るという行為から得られる愉悦を目的として行なうべきではなく、その斬るという行為に到るまでの経緯と結果を通じて、己の理想とする姿に近づけられるように自己研鑽する意識を保つための自己啓発手段であるべきと考えます。

 

また、私は普段サラリーマンとして会社組織の中で活動しており、日頃から社内で価値のある存在であることや会社に対して貢献できていることが求められていますが、その面でも【抜刀道】に限らず「武道」に携わることで、以下のように色々な面で勉強になることが多く、これらを吸収することで自分自身を成長させていけると考えておりますので、若い方にこそ「武道」を推奨したいと思います。

 

※「武道」を通じた恩恵

・礼節やマナー

・ルールの遵守や不正を抑止する心

・人との接し方や円滑な人間関係を築くコミュニケーション力

・物事の進め方や取り組み方

・困難な目標を克服する精神力

・新しいことを学ぶ楽しさ

・短期間で成果を出すための集中力や効率化の工夫

・ひとつのことをやり続ける忍耐力

 

更に後10年もすれば、私も定年となりますので、その頃には「社会とつながるため」の【抜刀道】というものがあるとも考えております。

 

この「社会とつながる」とは、日々の修練を通じて色々な人との出会いや人との縁を感じたり、様々な人や物事との関わりを通して、サラリーマン時代とは異なる社会とのつながりが生み出せることと考えます。

これからの定年後の人生を何もせずに家に引きこもっているようでは、人の心は萎えて生きる気力も弱くなりますので、積極的に外へ出て社会との関わりの中で生きて行くことで、いくつになっても自分自身の成長が出来るものと思っています。

 

それに人は一人で生きているように見えても、実は沢山の人に支えられていて、決して一人で生きている訳ではありませんし、お互いに助け合わなければ良い社会になりませんので、家族や友人との人間関係だけではなく、時には見知らぬ人と助け合っていくことが必要になると思いますので、そこで【抜刀道】の活動を通して地域社会との関わりを持つことで、若い人や現役世代と定年した世代や高齢者とが分け隔てなく、話し合えて助け合えるような社会環境が生まれるとを想像すると、これからが楽しみでもあります。

 

自分自身の武道歴を振り返ると中学時代にはじめた「柔道」や高校時代の「空手」に社会人として自衛官になってからの「銃剣道」などを学んできましたが、どれにも共通していることは「対人格闘術」であり、現在学んでおります【抜刀道】とは「組立ち」での対人練習を除いて、明らかに異なるものだと感じております。

確かに傍から見ると同様に剣を用いる対人格闘術である剣道と比較して、日本刀という対人殺傷武器を使用しますので、危険度合いは遥かに高い武道ですが、一般的に剣道などの対人格闘術と比較して身体的差異や身体に掛かる負担が少ないため、老若男女を問わず、高齢者であっても長く続けられる稀有な「武道」であると思いますので、これからも長く続けて有意義な人生を過ごしたいと考えています。

以上、拙い文章にて恐縮ですが、最後までお読みいただき、ありがとうございました


段位の重み 

愛知半田支部 錬士六段 大橋知彦


皆様も段について色々な考えを持たれている事と思います。

私は保育園の年長で剣道の門を叩いたのですがその頃の印象では先生に対する目が単に大人の人と言うよりは有段者という自分には手に届かない存在だった様に感じたのを思い出します。

今でもそうですが他の武道の有段者と聞くと私の中ではその道に熟練した方とお見お受けします。

然しながら段に対するその様な思いが有るにも関わらず実際に自分が昇段審査を重ねるに連れて一つの思いが出てきました。

 

抜刀の道に入会させて頂いた20代の若い頃には何も考えず初段を受領するのにも只々嬉しかったものです。その後もニ段、三段と合格する事に有頂天になり今にしては単に恥ずべき若気の至りだったと反省しています。それから四段の壁を彷徨う中で何か私の中で段への思いが変わってきました。昇段審査資格年数が来て只々自動的に受けて本当に私は現在の段に見合った技が出来ているのだろうか?と。

しかしその疑問は同時に昇段時に審査員をして頂き合格印を押してくださった先生方に対して失礼極まりない事にもとれるものだと言う事は重々承知していました。

その自分の技量と先生方に頂いた段の間で葛藤する事に次第に段の重みに押し潰されそうになる日々でした。その折に私はこの偉大な言葉にぶつかります。

実はこの「段の重み」と言う言葉は浮かれた気持ちを戒めるのに使わせて頂いているのですがこの言葉に出会ったのもまた良い宿命だったと思います。

山形支部は錬心会の故佐竹先生が仰っていたと我が師である愛知半田支部長を介して伺い知りました。故佐竹先生が御存命の際には何度か全国大会で拝見していたのですが畏れ多い事と私の人見知りが重なりご挨拶させて頂く事は遂に有りませでした。

ただこのお言葉がどんな形であれ私の所に降りてきて下さり抜刀の道に永遠の課題を作成して頂いたものと大変感謝しています。

 

今は大変勿体無い事では御座いますが一丁前に高段者の部類に入れて頂いています。先生方から見ればまだまだ洟垂れ小僧で当然の如く私の中にまだ「段の重み」に答えられる見識は有りませんが現在の段を頂いているからには国際抜刀道連盟の名に恥じる事が無い様に人格形成はさる事ながら技の向上に邁進、精進しなければいけないと思っています。

 

「道」は永く続き尽き果てません。

 

最後に大変生意気な事では御座いますがこのコラムを御覧になって下さった会員様にも今一度この「段の重み」について熟考して頂ければ山形錬心会の故佐竹先生の思いも浮かばれる事と思います。






初一念

人は初一念が大切なるものにて、昨今の武道、仕役、学問を為す者の初一念も種々あり。種々違えども諫言なし。

就中誠心の道を求むるは上なり。名利の為にするは下なり。

下人恥も知らずこれをみとむる事なし。上人それを咎むる事なし。

是、人たる歴然差異真実なり。

故に初一念名利の為に初めたるものは、進めば進むほどその弊われ、博学宏詞、身分、経済力を以って是を粉飾すると云えども、遂にこれを覆う事能わず。大事有事に臨み進退拠を失ひ、節義を欠き勢利に屈し、醜態云ふに忍びざるに至る


訳) 

人間は最初に心に強く深く思った事が大切。今に於いて武道や仕事や学問等に対して最初に深く思う事は様々ある。(それの優劣を否定するつもりは毛頭ない)

人として正しい生き方を求めるものは上の人、有名になりたかったり、得だから行うものは下の者。そして、下の者は自己欲求をよしとしてそれを他人に強要するが、上のものはそれに対しても否定はせず見守る。ここに人としての上下が必ず出来、差は歴然としあるものである。

だから、名誉や得の為始めた物事は、進めば進むほど、その弊害が顕著になる。

いくら広い知識や高尚な言葉や地位、お金などで飾っても、ついにこれを覆い隠すことが出来なくなる。

そして、大切な事態に際しては、進退の拠り所を失い、節義を欠き、権力や利益に屈してしまう。その見苦く恥じずべき様子は、口にすることさえ忍ことができないまでになってしまう。

安政2826日「講孟箚記」より引用文に追記し訳しました。


令和元年79

錬士5段 勝野しんり記





「道と言えば!」 

愛知半田支部 四段 井戸肇

人は生まれてから死するまでの事を一生(いっしょう)とも人生(じんせい)とも表しますが中には 道 と表す方々もいます。 生まれてからの環境の違い違いにより、価値観が異なり 苦労の度合いにより他人への思いやりもそれぞれ違う人格の大人が出来上がる それぞれ人生の目標と責任を果たす為に毎日を汗して働き、一日一日が過ぎて行く。

 

私の個人的な考えですが 生まれる前に目標を立て一生をかけ果たす努力する目標を宿命と呼び 

 

生まれてからの努力を重ね 道を自力で開けて行く事を 人は運命と呼ぶのだと思います。

 

私の人生と言う道の中で、刀との出会いは偶然の出来事だったのかと思う時もあります

 

13歳の時に初めて手に触れてから色々な刀に出会い研究をし手入れの最中には300年前の時代風景に思いをふけながら作業の手が止まっていた物です

 

刀とは見たり、触りながら五か伝の違いと作刀者の苦労を想像するばかりの物て゜それ以外の使用目的には思いもしていませんでしたが

 

まさか まさか 道の途中に刀を帯、姿勢を正し、刀を振り姿を皆に見て頂く 時には神々にその姿を持ち奉納の演武を行わせて頂く名誉にも賜るなど

 

夢にも考えませんでした このような出来事は

 

ただの運命なのか?

 

それとも宿命なのか? 

 

まだまだこの先に何が起こるのか 楽しみな道です

 

これからも関わる方々に感謝し、今日を一日精一杯に

 

と最後の時まで 一剣士としてこの道を歩きたい。

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